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2024年9月27日(金)・28日(土)

No.478 サンシティ名画劇場「風よ あらしよ[劇場版]」

関東大震災後の混乱のさなか、一人の女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。「女は、家にあっては父に従い、嫁としては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代―。平塚らいてうの言葉に感銘を受け、男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻した、ひとりの女性の短くも激しい生涯の物語。

日時
2024年9月27日(金)・28日(土)

①10:00上映(9:30開場)
②14:00上映(13:00開場)
③18:30上映(17:30開場)

主演・監督

【監督】
柳川強
【出演】
吉高由里子、永山瑛太、松下奈緒、美波、玉置玲央、山田真歩、朝加真由美、山下容莉枝、渡辺哲、栗田桃子、高畑こと美、金井勇太、芹澤興、前原滉、池津祥子、音尾琢真、石橋蓮司、稲垣吾郎 他

会場
小ホール
料金

全席自由(税込)
一般1,000円
割引券持参800円


チケット

当日券のみ
※開場時間に販売

お問い合わせ

【本編時間】2時間07分

主催
公益財団法人越谷市施設管理公社

イベント詳細情報

 

関東大震災後の混乱のさなか、ひとりの女性が憲兵に虐殺された。女性解放運動家の伊藤野枝。貧しい家で育った野枝は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受け、結婚をせず上京。自由を渇望し、バイタリティ溢れる情熱で「青鞜社」に参加すると、結婚制度や社会道徳に異議を申し立てていく。伊藤野枝を演じたのは吉高由里子。平塚らいてうに松下奈緒。また野枝の第一の夫、ダダイスト・辻潤を稲垣吾郎が、また後のパートナーとなる無政府主義者・大杉栄を永山瑛太が演じる。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の評伝小説『風よ あらしよ』を原作に、向田邦子賞受賞の矢島弘一が脚本を担当する。本作の演出を務めた柳川強は「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子の波乱万丈の人生を描いたNHK連続テレビ小説「花子とアン」のディレクターも務めており、本ドラマでも主演を演じきった吉高由里子とは9年ぶりのタッグを組んだ。ひとりの女性の短くも激しい生涯から100年経ったいま――なにがかわり、なにが残されているのか。

 

 

物語

 

「女は、家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫が死んだあとは子に従う」事が正しく美しいとされた大正時代―。

男尊女卑の風潮が色濃い世の中に反旗を翻し、喝采した女性たちは社会に異を唱え始めた。

福岡の片田舎で育った伊藤野枝(吉高由里子)は、貧しい家を支えるための結婚を蹴り上京。平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け手紙を送ったところ、青鞜社に入ることに。青鞜社は当初、詩歌が中心の女流文学集団であったが、やがて伊藤野枝が中心になり婦人解放を唱える闘う集団となっていく。野枝の文才を見出した第一の夫、辻潤(稲垣吾郎)との別れ、生涯のパートナーとなる無政府主義の大杉栄(永山瑛太)との出会い、波乱万丈の人生をさらに開花させようとした矢先に関東大震災が起こり、理不尽な暴力が彼女を襲うこととなる――。

 

 

 

 

 

DIRECTOR MESSAGE

 

私が伊藤野枝と初めて出会ったのは、おそらく大学時代に『ブルーストッキングの女たち』(作:宮本研)を見た時です。雑誌「青踏」に集まる女たちの葛藤、大杉栄をはじめとする男たちとの恋愛模様などが大正絵巻の中で描かれた戯曲の佳品。何よりも、若い私は伊藤野枝の“奔放さの魅力”に惹かれました…。以降、この戯曲は“私のお気に入り”となり、様々な劇団の再演を見に行く事が続き、いつしか「野枝を自分の手で描いてみたい」という大望を抱くに至ります。 作り手の常というものです。
が、なかなか実現する事はありません。無政府主義者の活躍や、震災後の虐殺などに物語としての希望が見出せない、ましてや時代劇は予算がかかる、と言われ続けてきたのです。
しかし、諦める事も、作り手の常として…ありません。

少し立ち止まって、何故自分は野枝に惹かれるのか?私を虜にし続ける理由はなんだろう?その根本は何なのか?もう一度見つめ直す事で企画の強さが生れるのではないか、と考えました。それが、企画書の最初の1行になるからです。
「自由、自由、自由・・・」野枝は、当時の女性ががんじがらめに縛られた「女はこうあるべき」という「因習」と立ち向かいます。そればかりか、人の自由を奪いすらする権力とも立ち向かう事になります…。誤解を恐れずにいえば、フェミニズムの視点からよりも「個人として自由でありたい」という彼女の自由を渇望する芯の強さ、ぶれない強さ、に自分は惹かれるのだろう、と思い至りました。
そんな時、まるで満を持したように、村山由佳さんの小説『風よ あらしよ』が世に出ます。600ページ以上の大作、そして野枝が乗り移ったような村山さんのほとばしるような圧倒的な熱量。そしてそれと前後するように、香港で声をあげ始めた周庭さんやデニス・ホーさん、スウェーデンでひとり座り込みをするグレタ・トゥーンベリさん、#me too運動など、いわゆる「わきまえない女たち」の出現も後押ししました。原作の“嵐のような熱量”と“世の中の風”が相まって、ようやく企画はGOとなったのです…。

今考えてみると、野枝の存在自体が少し時代を先取りし過ぎていたのではないか、そして時代がようやく彼女に追いついてきたのではなかろうか、と分析します…。
そして、資本主義が行き詰まりを見せ、99:1の格差があらわになり「権力の横暴が剥き出しになってきた今だからこそ、野枝を描くべき必然が生れたのだ」と強く感じます。

私が一番好きなのは「わたしが育った村ではね・・・」と、野枝が「組合」による助け合いの中で育ってきた幼少時を語るシーンです。ここで野枝が語っている事は、まさに“共助”の世界。行き詰まりを見せる現代社会に対して、変革のヒントを与えてくれる考え方だと思っています。(『無政府の事実』という論文で、野枝はこのような考え方を綴っています)これぞ“コモンの自治論”です。野枝がその後も生きていたら、どんな発想をしたのか?それは私たちに残された課題だと思います…。そんな思いを、フィクションの中ではありますが、ラストシーンで幼い魔子ちゃんに託しています…。

今年9月16日、私は静岡の沓谷にある、野枝と大杉の墓の前にいました。
言うまでもなく、野枝と大杉が惨殺されてから100年目の忌日…たくさんの方々が集まり口々に語っていたのは「100年で一区切りがついた訳ではない」という事でした。
私もそう思います。“伊藤野枝の生と死”を描くこの映画は、単なる歴史劇ではありません。まさに「今」を照射したものだと思うのです。

柳川 強